福田 匠

 

 

福田氏の油彩画は、水彩画のような柔らかさ、摩滅した壁画のような色彩と独特な動きの運びと間で描かれている。絵画として現れている色は、古代から密やかに続いているかのような色彩感覚を持って表現されていることも興味深い。福田氏の絵画を通じて、容易に古代、イマ、未来へと魂が向かい、また見えない世界へも回帰していることを感じられる。日本の古代的な感覚の何か、日本人が持ち続けている奥深くに眠る無意識領域を絵画の中に彷彿とさせ、また未来を予知しているようにも感じる。日本的な微細な色彩と深い森に潜んでいるかのような移りゆく大胆な色を両立させ、人が可視化できないものを感覚的に捉え、絵画の中に構成しているようにも視える。

福田氏は、日本の神話や信仰、芸能や民俗的なもの、それらに纏わる現象が浮かび上がらせる、けむりのように揺れ動く捉え難いものを美に転換し、意識と無意識の領域を行き来しながら絵画や造形に落としこみ空間の次元を変容させている。

 

2025年 3月29日(土)-  4月13日(日)  12:00 –  18:00   

作家在廊日:土、日

休廊日:4月3日、4日、9日、10日

from new moon, solar eclipse to full moon

 

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近年、熊野にまつわる事柄を制作主題のひとつにしています。三重県熊野市の〈花の窟〉及び〈産田神 社〉から次作の着想を得た頃、このたびの展示のお話をいただいたと記憶しております。日本書紀では、 イザナミは紀伊国熊野の有馬村に葬られたという記述があり、その地が花の窟だとされています(古事記で は島根県安来市の比婆山)。そして花の窟からほど近い産田神社は、カグツチが産まれた場所です。イザナ ミは火の神であるカグツチを産んだ際、陰部に火傷を負い死んでしまいます。そのことに怒った夫のイザ ナギは子であるカグツチの首を剣で刎ねたのでした。すると横たわる二神の体や血から、イザナミに至っ ては吐瀉物や排泄物からさえも新たな神が次々と誕生しました。それは凄惨な現場ながらも、生と死は対 立し合うものではなく、生の中には死が、死の中には生が孕んでいるという一定の場所に留まらない流動 的エネルギーのダイナミズムを予感させる光景です。熊野はよみがえりの地ともいわれ、この物語のよう に生と死が幾層にも織り込まれた特殊な力を内包する場所です。 いつの時代も人びとはそのような力を本 能的に感じ取り、熊野という目には見えない大いなるものに畏怖の念を抱きつつも惹かれてきたのだと考 えられます。だからこそ、“蟻の熊野詣”と形容されるほど日本でも有数の一大信仰地と成り得たのでし ょう。

本展では庵にて、火、白那智、神籬、綱掛け神事、磐座、熊野灘などの魅惑的なことばを手掛かりに制 作した作品を展開し、花の窟及び産田神社周辺で採集した素材、またテーマに関連する立体物をしつらえ ます。白田では実験的、且つ即興性や身体性を重視した作品を展示します。それらはつくるということの 本質を探るような、コンセプト以前の言わば私の血や骨のようなものだといえるかもしれません。

福田 

 

 

福田   匠 / ふくだたくみ
和歌山生まれ

古くから数多ある民俗や芸能、神話、信仰など、またそれらに関連する土地や現象を主題に制作を行う。兵庫県丹波篠山、篠山城跡北東方面の外壕からほど近い通りの一角にて〈丹ゆう〉という自身の絵画や古美術、アートを展開する空間を創る。 “丹”は丹波篠山の丹、“ゆうは“熊”、 故郷が紀伊半島南部の熊野に縁が深い土地であるということ、また敬愛する南方熊楠の名の所以から。かつて慣れ親しんだ地と、今を生きる地のそれぞれ一文字をもって〈丹ゆう〉とし、自身の美の意識を追求する実験的な場とする。